宣長の歌論というのは、複雑で壮大だが、どうもすっきりと納得できないところがある。

宣長は新古今の頃の和歌が一番良い、と言っている。 そういう評価をする人は多い。 しかし、では、新古今的な歌を詠めばよいと言っているかというと、必ずしもそうではない。

宣長の場合は、新古今の歌人たちは古今後選拾遺を学んだので新古今的な歌が詠めたのだから、 学ぶのは古今後選拾遺であるべきだ、新古今を学んで新古今的な歌を詠もうとすると異風に落ちる、 などといっている。

古今支持派の意見、例えば香川景樹や高崎正風なども、根っこで言っていることはだいたい同じだろう。 新古今は面白いが奇矯過ぎる。 真似しようと思っても真似できるものではない。 だから基本に戻って古今を学ぼう、と。 正岡子規が言っていることも根本では同じだ。 古今や新古今は良いとして、その後が糞すぎる、と。

事実新古今を学ぶのは容易ではない。 定家、後鳥羽院、西行などはそれぞれ個性が強い。どれが新古今と言う定形がない。 二条派だって、定家の真似をしろとは誰も言ってない。 ただ、定家を本歌として二次創作しろと言っているにすぎない。

新古今の後、和歌は自然と二条派に収束していった。 僧侶階級に理論家が現れ、 歌論が発達し、類題集が編纂され、題詠や歌合などのルールが確立されていった。 二条派への反発も、京極派などであったが、やがて多様性は失われていった。 まるで、西欧における異教裁判のように。

新古今は和歌が一次創作から二次創作へ移り変わる転換点だった、と考えるとわかりやすいだろう。 一次創作は、理論に収まらないから一次創作なのだ。 体系化することはできない。 いきなり天才が現れて忽然と新しい流れがうまれ、理屈では説明できない傑作が生まれるのが一次創作というものだが、 理屈で良い悪いを判断することができないので、キュレーターも評論家も学者も手も足も出ない。 自然と、ある一定の評価が定まるまで、 あたかも火山が噴火して溶岩が冷えて固まって人が住めるようになるまで、待つしかないのだ。

これに対して二次創作は万人が理解でき、万人が参加できる。 西行の真似はできなくても、西行の本歌取りはできる。 もはやそこは手付かずの原野ではない。 きちんと手入れされた里山のようなものだ。

宣長は、理論の天才ではあったが創作の凡才だった。 凡才というのは言い過ぎならば、秀才であった。 したがって、西行や為兼などを恐れた。 二条派を確立した頓阿や、比較的早期に成立した題林愚抄などの類題集などを、 実際には愛した。 人種として、宣長は頓阿に近く、西行からは遠すぎたのだろう。 宣長は、題林愚抄を編纂した室町時代の無名の歌人(歌学者、おそらくは二条派主流にいた誰か)に共感をおぼえたのだ。 為兼についてもそうだろう。自分とは違う人種だと、感じたのにすぎないのではないか。

宣長は「異風に落ちる」ことを異様に恐れた。 西行や為兼を直接批判しているのではないのだと思う。 彼らを真似すると異風に落ちる。 凡人が真似るとよけいに迷走する。 特に為兼には危険な匂いを感じていた。 魅惑というよりも恐怖に近い。 自分自身、彼らの真似をすれば、歌の基準を見失って、歌がまったく詠めなくなってしまう、 そんな危機感を覚えるのだろう。 宣長が実作するに具体的に頼りになるのは頓阿などなのだ。 宣長はのちには、古今を直接学ぶのは難しいから頓阿の草庵集や、題林愚抄で学べ、などと言っている。 そもそも古今や新古今にはまだ題詠などという概念がない。 題しらずの、歌合以外の場所で詠まれた歌がたくさんある。 題詠や本歌取りなどのルールは定家の後、二条派において確立された。 日本の伝統文化のほとんどは室町時代に確立された。 こんにち和歌といっているものも実際には室町時代に完成されたものであり、 それ以前の、生の古今集や新古今集ではないのだ。 現代人は室町までは案外すんなりわかる。 しかし、それ以前は、感覚として、直感として理解することができない。容易ではない。

江戸時代に生きた宣長は題詠から入り、題詠以外の歌が詠めなかった。 宮廷サロンで生まれた「歌道」から外れた歌は詠めない。楽しめない。 「歌道」は「茶道」や「書道」などのように、室町時代に様式化された文化であって、 それ以前の時代の生の作家の生の創作活動とは根本的に違う。 別物といってよい。

宣長は、生まれたときから歌道の上にいる。 題詠以外の歌を詠むときにも、どうしても題詠の作法の範囲の中で詠んでしまう。 おそらく、子供の頃から、そういう詠み方しか知らないし、やったことがないのだ。 題詠を学ぶには室町以降の文献に頼るしかない。

その辺の事情が宣長の歌論をわかりにくくする。 宣長も新古今が一番だと思っている。 とりわけ、定家が好きだ。 しかし新古今や定家を直接真似することができない。 そのもどかしさを感じていたのだろう。 宣長が何度もくどくど繰り返している言い訳のようなものは、現代人から見ればつまりそんなところだろう。 江戸時代の人間、室町以降の人間は、題詠でない歌は詠めない。 題詠を学ぶには室町以降の歌論を学ぶしかない。 そのために遡れるルーツは二条派しかない。 その始祖は定家だが、定家自身を真似ることは不可能だ。

むろん、江戸時代にも、宣長より大胆な、一次創作に挑む歌人はいくらもいた。 小沢蘆庵や香川景樹はそうだっただろう。 しかし、江戸狂歌の歌人たちがそうだったとはちと思えない。 彼らのは二次創作そのものではないか。 それ以上の創意があっただろうか。

題しらず

さびしさは その色としも なかりけり 槇立つ山の 秋の夕暮 (寂蓮 1139-1202)

心なき 身にもあはれは 知られけり 鴫たつ沢の 秋の夕暮 (西行 1118-1190)

西行法師すすめて、百首詠ませ侍りけるに

見わたせば 花も紅葉も なかりけり 浦のとまやの 秋の夕暮 (定家 1162-1241) 

この『新古今』に並んで収められた三つの歌の成立をどうとらえるのか。 詞書によれば、西行の歌があって、それに対して定家が返歌を求められた形になっている。 従って、西行より定家が後なのはわかる。

では西行は寂蓮の歌を本歌として詠んだのだろうか。 さて、そうだろうか。

年の順で言えば、寂蓮は西行の21歳の年下、定家はさらに23歳年下。 定家は西行よりも44歳も年下である。

西行の歌は1187年に成立した『御裳濯河歌合』に入っており、 定家の歌は1186年にできた『二見浦百首』に、 寂蓮の歌は1191年成立『左大臣(良経)家十題百首』入っているという。 『御裳濯河歌合』は西行の自選集だから、詠んだのはもっと昔かもしれない。

定家は西行を本歌として、寂蓮は定家と西行を本歌として詠んだのだが、それがわかるとすっきり理解できる。

寂蓮はしかも定家という実子が生まれるまで俊成の養子であった。 やや複雑だが、いずれも歌道の家の人間であるのに、その間に挟むように、西行の歌があるのはなにやら悪意すら感じる。 寂蓮と定家は二人とも『新古今』編纂の寄人で、西行はとっくに死んでおり、 寂蓮は選考の途中で死んでしまった。 残された定家としては、このような順序にせざるを得なかったのかもしれない。

「心なき身にもあはれは知られけり」は、俗世を捨てて人の心も捨てたはずの私にも、どうしても、もののあはれというものが感じられる、 という意味だろう。 世の中では、「心無き身」を「情趣を解さぬ粗野な自分」とか「煩悩を捨て悟りを開いた自分」などと解釈するらしいが、 それはおかしい。実にfunnyだ。西行の

 惑ひきて 悟り得べくも なかりつる 心を知るは 心なりけり

 身を捨つる 人はまことに 捨つるかは 捨てぬ人こそ 捨つるなりけれ

 我ばかり 物思ふ人や またもあると もろこしまでも 尋ねてしがな

などの歌を見ればわかるが、西行は、煩悩を捨てきれずに苦しんだ人であり、 煩悩を捨てきれずに苦しむ者こそが真の世捨て人であって、 世捨て人のふりをして何の悩みもないやつは世捨て人ではない、とまで言っている。 また、当然のことながら、風流や情愛のわからぬ朴念仁だと自分を卑下してもいない。謙遜もしてない。 自分こそは、人の心がわかると、もののあはれを知っていると自負しているのだ。 自分くらいわかっている人がいるか、世界の果てまで探してみたいものだ、などと言っているくらいだからなー。 西行ファンで西行を誤読している人が多い。

従って、大意としては、普通の叙景の歌であって、ひねりはない。 素直な歌だ。

しかし、定家のは、実にひねくれた歌だ。 何にも無い、殺風景な、殺伐とした、ただの秋の夕暮れだ、と言っているだけなのだが、こういうものに情趣を感じる人がいるのが不可解である。 この歌はただひねり過ぎてひねくれた歌とだけ解釈すればそれで済むと思うのだが。 もっと言えばこれは西行への当てつけの歌だ。 西行的な、浪漫的で印象絵画風な歌への嫌悪を歌ったものだ。 それ以上のものではあるまい。

寂蓮のはさらに、定家の虚無感を仏教的な無常観につなげようとした、いやらしさを感じる。 しかしこういうものに、世の中の人は、ことさらに幽玄とかなんとかの価値を見いだそうとする。 本歌取りの歌というものは、だんだんにひねくれていくものだ。 最初の歌は素直な、見たままの歌であるのに、二次創作、三次創作となるにつれて、 いやらしさがまとわりついてくる。 特に定家は本歌取りの名人などと言われたわけだが、実にうっとうしいやつだ。

定家は『新勅撰和歌集』というものを一人で選んだのだが、 その前の『新古今』が後鳥羽院の親選だったのを考えると、実に皮肉な題名だ。 『新勅撰集』は定家の私撰集というような内容だからだ。 これはつまり、『新古今』から、 後鳥羽院や西行のような、 主観的で耽美的なものをそぎ落として、なにやらよくわからん虚無的・無味無情なものだけを抽出したようなものだ。 肉食を禁じて精進料理にしたようなものだ。 たとえば、『新勅撰集』にも西行の歌はいくつも採られているが、どれもなんか、気が抜けたような、 西行らしくない歌ばかりなのだ。

定家がたまたま『新勅撰集』でそんな実験をしたというだけなら、大して害はなかったのだけど、 後の人は『新勅撰集』みたいなものを和歌であると、勅撰集であると思い込んでしまった。 これは和歌にとってあまり良いことではなかった。 おそらく為兼はそれをいくらかなりと矯正したかったのだと思う。

たぶん、後鳥羽院は西行を愛してはいたが、 定家のことは、才能はあるがひねくれたやつくらいにしか思ってなかっただろう。 父の俊成とはかけ離れた、よくわからん変なやつ。 しかし世の中は何かよくわからんモノの方をありがたがるものだ。 『新勅撰集』以後、わかりやすい歌というものは急速に減っていった。 為兼がその流れを変えようと孤軍奮闘したが、大勢に抗することはできなかった。

以前書いたことの繰り返しになるが、 「なぜ宣長は『源氏物語』が読めるようになったのか」という問いに対して、 「人妻への片思いがあったからだ」「熱烈な恋愛を経験したからだ」などという答えを用意することには、反対だ。 そういう論法に従えば「なぜ宣長は和歌を理解できたのか」「なぜ宣長は古事記を読めたのか」という問いに対しても、 「若き日の大恋愛と失恋があったからだ」などというへんてこりんな答えを導き出さねばならぬ。 やはり、宣長は天才であったから、和歌の本質を理解し、『古事記』も『源氏物語』も読めた、といった方がすんなりくる。

字余りについて最初に明確に指摘をしたのは、やはり宣長であった。 彼は千載・新古今から破格の字余りが用いられるようになり、特に西行に顕著であるとみているが、非常に鋭い観察だ。

千載和歌集の選者は藤原俊成、新古今は後鳥羽院である。 特に後鳥羽院は西行の天才を愛しており、そのため西行の歌を積極的に採り、かつ自分も「まねてみた」のであろう。

たとえば千載集では、西行の歌で露骨に字余りなのは

もの思へども かからぬ人も あるものを あはれなりける 身のちぎりかな

くらいしか見当たらないのが、これはまた変な歌だ。「もの思へども」でなく「もの思へど」でも同じだし、 その方が字余りにならない(「ものおもへど」でも六字のようだが、母音が連続する部分は一音とみなすから、五字相当である)。 わざと字余りにしている。京極為兼の歌のようだ。

俊成は勅撰集の選者として一つの先例を残した、という意味でのちの後鳥羽院を勇気づけるには十分だった。 新古今では

岩間とぢし 氷も今朝は とけそめて 苔の下見ず みち求むらむ

あはれいかに 草葉の露の こほるらむ 秋風たちぬ 宮城野の原

小倉山 ふもとの里に 木の葉散れば 梢にはるる 月を見るかな

君去なば 月待つとても 眺めやらむ あづまのかたの 夕暮れの空

世の中を いとふまでこそ かたからめ かりのやどりをも をしむ君かな

思ひおく 人の心に したはれて 露分くる袖の かへりぬるかな

棄つとならば うきよをいとふ しるしあらむ 我が身は雲る 秋の夜の月

風になびく 富士の煙の 空に消えて 行方も知らぬ 我が心かな

月の行く 山に心を 送り入れて 闇なるあとの 身をいかにせむ

いかがすべき 世にあらばやは 世をも捨てて あな憂の世やと さらに思はむ

と、数多くある。 思うにこれは、後鳥羽院が自ら選んだからこんな大胆なことができたのである。 普通、字余りの歌というのは、臣下の身では遠慮があってなかなか採りにくいだろう。 しかし、好き嫌いのはっきりした後鳥羽院はじゃんじゃん採った。 そして自らも詠んだ。

秋の露や たもとにいたく むすぶらむ 長き夜あかす 宿る月かな

つゆはそでに ものおもふころは さぞな置く かならず秋の ならひならねど

そでのつゆも あらぬ色にぞ 消えかへる 移ればかはる 嘆きせしまに

などがある。いわば自薦の歌だ。後鳥羽院自身は、西行のような歌を、世の中にはやらせたかったのに違いない。

新古今には、まだ多様性があった。 万葉時代の古歌や、古今時代の歌人の歌などもふんだんに採られ、 題のない、題詠ではない歌が大半であり、歌物語ほどの長さの詞書もある。後世の勅撰集や私家集にはあまり見られない特徴だ。 歌物語の書き手がこの時代にようやく枯渇してきたしるしだ。

同時に定家や式子内親王などの同時代の歌も混ざる。 西行と後鳥羽院は新古今の代表的歌人ではあるが、代表的な歌とはいいがたい。 一方定家・式子内親王の方は後の二条派に直結する正当派である。 おそらく新古今的という形容は、定家や式子内親王やそれに類する歌に対するものであり、 西行・後鳥羽院の破格の歌をいうものではない。

時代が下ると、二条派の歌が主流となって、それ以外の「雑多」な歌は排除されるようになった。 西行・後鳥羽院的な歌風は忘れ去られようとしていたのだが、 それをむりやり復活させようとしたのが京極為兼であったろう。 つまり、為兼は、西行が始めたスタイルの方向へ和歌を急旋回させようとしたのだ。 それは為兼自身が二条派の本流に反発したためでもあったかもしれない。 和歌を政治の道具にしたとも言えるかもしれない。 同時に二条派が西行や後鳥羽院らの歌を積極的に好んではいなかった証拠なのではないか。

以前、字余りは京極派、為兼が最初にオーソライズしたのだと書いたことがあったが、それは誤りだった。 最初にオーソライズしたのは俊成で(だが、よく考えると、俊成が西行を好きだった可能性は低く、どこかから強い入選の圧力があったのかもしれない)、 それを後鳥羽院が発展させた。 しかし、定家はそちらへふくらませることを拒んだ。逆にしぼりこもうとした。 そこから後世の二条派の形というものが作られていったのであろう。 定家のやったことは一種の矮小化であったから、そこからはみ出そうという動きはいくらでもあった。 為兼はそれをわざとむきになってやったのに過ぎない。

江戸時代に入ると、もう人々は自分の創意工夫で和歌を詠む能力を失った。 ルールと作法が完全に確立してしまったのである。 だれもが定家以後のしっかりした二条派歌論に基づく歌を詠むようになった。 西行・後鳥羽院・為兼の歌は、歌論になじまない。 逸脱したものを愛好するからだ。 宣長が嫌った理由もそこではなかろうか。 宣長はしかし西行や後鳥羽院の歌をどう感じたのであろうか。

始祖オスマンの父はエルトゥールルというが、彼はすでにアナトリアに進出していたらしい。 エルトゥールルで検索かけると「エルトゥールル事件」ばかりがひっかかる。

英語版wikipediaによれば、エルトゥールルは1230年にメルヴからアナトリアまで400の騎馬とともに移動した。 そこでルームセルジュークの王によって武将に取り立てられて、東ローマ帝国との国境を任地として与えられたという。 1230年ということは、フビライが死んでオゴデイがモンゴルのハーンになったばかり。 バトゥによる西征が始まるよりも前である。 あるいは、1230年というのは概数であって、 エルトゥールルはバトゥのヨーロッパ遠征軍の中にいたのかもしれない。

なんか面白いなあ。

だいたいこんな具合ではないか。 エルトゥールルはバトゥとともに西へ向かった。 1241年にオゴデイが死ぬと、エルトゥールルも故郷のメルヴに帰ろうと思った。 しかし、バトゥがカスピ海沿岸のサライを都としてキプチャクハン国を建てると、 エルトゥールルも帰国を諦めてアナトリアで同族のルームセルジュークに仕えることにした。 まあ、曖昧な伝承しかないそうだから、このくらい脚色してもよかろう。

1157年にサンジャルは死去する。 彼には女子しかいなかったことになっているが、 その娘の中の一人がエルトゥールルを産んだ、とかいう話にすると面白そうだな。 『セルジューク戦記』の続編で『オスマン戦記』でも書くかね。 たいへんだなあ。

ある意味、チムールみたいな人だな。 エルトゥールルとチムールを対比させながら書いてみると面白いかもな。 あ、時代がまったく違ってた。 チムールの方が百年後だわ。

セルジューク朝の高祖SeljukにはMikhail、Yunus、Musa、Israelという四人の息子が居た、ということになっている。 このうちオスマントルコの始祖OsmanはIsraelの末裔であり、 Israelの家系はルーム・セルジューク、つまり、アナトリアに定住したセルジュークの子孫といわれている。

アナトリア定住はセルジューク朝のスルターンであるアルプ・アルスラーンが東ローマ帝国をマラズギルトで破って以来進んだということになっている。

しかし、ほんとだろうか。 一番気になるのは、Israel、Yunus、Musa、Mikailなどの名前が、 セルジュークの家系の中で浮いているということだ。 Yunus はアラブ語で、日本語訳聖書的に言えば「ヨナ」のこと。 英語では Jonas など。 Musa はモーセのこと。 スレイマーンはソロモンのことだが、スレイマーンという名前は、 おそらくは中東のキリスト教からイスラム教に入ってアラブ語化したものであり、 ユダヤ人に限らず、アラブ人にも多く見られる名前である。 ユヌスもそうだろう。 セルジューク王族の名前が、トルコ語由来ではなく、 アラブ語由来のユダヤ系の名前であってもおかしくはない。 他にはダーヴード (David、ダビデのこと)などがある。 しかし、それはアラブ世界に侵入して、 首長がスルターンと呼ばれるようになった後のことのはずだ。 もし彼らがトゥルクメニスタンやキプチャクから来たのであれば、当時はトルコ語由来の名前でなくてはおかしいのではないか。

セルジュークは伝説の人であるし、その四人の息子も名前しか伝わってない。 しかし、Mikailの子のチャグリー・ベクやトゥグリル・ベクなどはかなり詳しい伝承が残っている。

思うにルームセルジュークの始祖はセルジュークの家系とは直接関係ないのではないか。 トルコ民族はすでにキプチャク平原に広く移住してきていた。 あの辺りは当時は人口密度はほぼゼロに近く、定住する都市というものもなく、 あったとしても千人を超えることはまれだっただろう。 だから、遊牧民族が侵入してきて、ここは俺の国だと宣言するだけで国が作れたのに違いない。 アナトリアに侵入してきたのもルームセルジュークが最初ではなかっただろう。

たまたまモスルやアレッポなどのシリアの都市を征服したアルプ・アルスラーンが、 義侠心によって、アナトリアに居た同族(母語を同じくする人々)の加勢をした。 それがたまたまローマに圧勝した。 それでトルコ人のアナトリアへの入植が加速した。

クタルミシュなどの、ルームセルジュークの祖が、セルジュークの子孫である必然性が何もないのである。 一方、アルプ・アルスラーンはおそらく本当にセルジュークの子孫であり、 ホラサーンからわざわざシリアまで遠征したのに違いない。 バグダードでアッバース朝カリフからスルターンの称号をもらったというのも、まずほんとうのことだろう。 史実の濃密さが違う。 一方クタルミシュの家系はただ名前が羅列されているのに過ぎず、 伝説以上のものではなかろう。 アルプ・アルスラーンを参戦させるためにセルジュークの子孫である、と主張するくらいのことはしたのかもしれない。

オスマンは、セルジューク朝の成立以後もキプチャク平原に残っていたオグズの出身で、 彼らの一族はモンゴル族に圧迫されて西へ移動したらしい。 後にアナトリアに侵入し、ここで他のトルコ民族を糾合したのだろう。

左手でトラックボールを操作して上下左右にスクロールして、右手でペンタブのペンを持って、 あと、intuos4のホイールでズームしようと思ったのだが、なかなかうまくいかない。

まず、ロジテックの setpoint 6.32 というのが、何度やってもインストールに失敗する。 仕方ないので、4.80という古いやつを拾ってきたのだが、新しいのがすでにインストールされているから、 インストールを終了しますと言って、インストーラーが動いてくれない。 windows の普通の方法でアンインストールしてもダメ。

で、ネットで検索してみると、同じことで悩んでいる人は割といるようで、 regedit で logitech で検索かけて全部消せとか言ってるのでやってみたら、 なんとか4.80をインストールできた。 6.xx というのは要するにオンラインインストールができるというだけで、 4.xx と大して違わないらしい、と思われる。

で、いろんなアプリケーションでためしてみたのだが、 ブラウザや表計算ソフトなどでは割とまともにこのユニバーサルスクロールってやつが機能するのだけど、 肝心のグラフィックソフトでは、スクロールして欲しいときに領域を移動してしまったり、 マウスホイールではズームしてくれるのにintuosのホイールではしてくれなかったり、 と、なかなかうまくいかない。 こういう操作の複雑なやつの場合きちんとチューニングできないと結局使えないということになってしまう。 でも、それなりに便利なのでトラックボールとペンタブの両刀遣いでこれからやっていこうとは思う。 ちゅうかね、ワコムがトラックボールごと開発して、統合的にチューニングできるようにしてくれんかね。

なるほどなあ。 ユニバーサルスクロールは矢印キーにバインドされているんだな。 だからexcelやfirefoxなどでは思ったように動作するが、 photoshop なんかだと、矢印キーは「移動」に割り当てられていて、 「スクロール」には割り当てられてないんだなあ。 なんかやっかいだな。

scroll lock キーを押してもだめ。

うーん、どうやら、ズームとパンは、 トラックボールを使うよりは、左手でショートカットキーを使う方がましな気がしてきた。 ズームは Ctrl + と Ctrl – で、 パンは H。 トラックボールは純粋に矢印キーの代わりに使うのが良さそうだ。 でもそれなら最初から矢印キー使ってればいいじゃん、という話になりそうだなあ。

しわい

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1月 112012

あれ、「しわい」は方言ではなくて普通に「けち」と言う意味の古語だと思って調べてみると、 岩波古語辞典によれば『驢鞍橋』という、鈴木正三の言行を弟子が記録したものに出るらしい。ということは、江戸初期くらいからの言葉だろうか。

養子

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1月 112012

昔の人の経歴を調べていて感じるのは、養子縁組というのが、非常に多かったということだ。 例えば自分が次男・三男などで、親戚筋、特に本家などに嫡子がいない場合に、 養子となってその家の家督を相続する。よくあることだったようだ。

独身で子供がいない、ということは当時としては滅多になかったようだが、 実子がいない、 実子がいても娘しかいない、 実子はいたが早死したり病気だったりして嫡子にはなれない、 あるいはなんらかの理由で廃嫡した、 などということはしばしばあった。

息子はいないが、娘はいる場合には、婿養子を取る。 その場合も通常は親戚の男子を優先するのだろうが、 特に学問や芸能の家の場合には、有能な弟子を婿に取ることが多かったようだ。 娘もいない、親戚にも適当な子がない場合は、 まったく赤の他人を養子にすることもあったように思われる。 その際には、赤の他人が赤の他人の嫁をもらう、というのではなく、 親戚の娘を養子にしてその婿養子をとるとか、 あるいは養子に親戚の娘を嫁がせるとか、 そんな工夫をしたのではなかろうか。

ともかくそういう具合に養子で成り上がった人というのが少なくない。 家というのが重要かつ根本的な社会組織であり、 そこには家業とか所領とか財産とか株とか組合など、誰かに相続しないわけにはいかない資産が付随する。 一方では子沢山な家庭があり、 他方では子宝に恵まれない家があり、 かつ家業の優秀な後継者が欲しいという状況では、 さかんに養子縁組が行われてきたのだろう。 一度養子制度というものをきちんと調べる必要があると思う。

王家

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1月 102012

天皇家を王家という言い方がどうかというので盛り上がっているようだが、 『日本外史』に限って言えば、

先王の必ず躬ら之を親らしたまふは、其の旨深し。

吾外史を作り、はじめに源・平二氏を敍するに、未だ嘗て王家の自ら其の権を失ひしを歎ぜずんばあらず。

吾は王族なれば、当に天子と為るべし。

我、平治年間より功を王室に建て、天下を專制し、位、人臣を極め、帝者の外祖と為る。

汝、王命を奉じて乱賊を討ち、兵を交へずして帰る。

などのように、天皇を「王」と呼ぶことは極めて普通。 漢文にはそういう風習がある。 また、

平氏は桓武天皇より出づ。

のように、「天皇」という呼称を使うこともある。 ただし、普通「王」といえばそれは「親王」のことを意味するから、天皇を単に王と呼ぶことはあり得ない。 「王命」とか「王室」のような熟語の中で使われるだけだ。 他には「上皇」「院」「法皇」なども普通に使われている。 天皇を「日本国王」と呼ぶことも忌避されるだろう。 というのは、これは慣習的には「中国皇帝」の臣下としての呼称であり、 足利義満もそう呼ばれていたからだ。

思うに、「王家」という言い方は少し漢文的・儒学的であり、口語で使われることはまずなかっただろう。 公家の日記も漢文だから、使われていた可能性は高い。 公式文書では「王家」や「王族」などが簡潔で好まれたのではなかろうか。 「皇室」や「皇族」などという用語はあまり使われなかったのではなかろうか。

大和言葉なら、天皇家の血統という意味なら「あまつひつぎ」だろうか。かなり堅苦しいが、他にあまり思いつかない。 じゃあ普段の話し言葉ではなんと言っていたか。 さあ、わからない。 だが、現代語で話すドラマなのだから、現代人の口語に準じればよいだけではなかろうか。

ガエータ

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1月 102012

google earth 画像の使用 によれば、

Google のロゴの帰属を含む、著作権および帰属を保護するという条件で、このアプリケーションからのイメージを個人的に (ご自身のウェブサイト、ブログ、またはワード文書などで) 使用することができます。

ということなので、どんどん使わせてもらう。

ガエータなんだけど、google の航空写真では、城塞の部分がちょうどつなぎめになっていて、 二重にぶれたようになってしまっている。

それで適当に重ねてみると次のようになる。

複雑な形をしているのだが、 おおまかには、 中庭をもつ二つの矩形の砦がくっついたような構造になっていることがわかる。


ガエータは全体としては函館のような地形をしていることがわかる。 その突端に砦があった。 また港は軍港であって、アメリカ海軍の母港にもなっている。 米軍にとってはイタリアの首都ローマ最寄りの便利な港だろう。 日本の横須賀みたいなものか。


で、それを適当に加工してトレスして絵を描こうかと思ったがなかなか難しく断念した。

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